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六月

六月は煙草にうまく火が点かないから嫌いだ。湿った空気は重力を付加しているようで、地上にある全てを、たとえどれほど小さな原子一つにおいても取り溢さず、地面に押し付けようとする。そういった時期の空はいつでも不機嫌で、ぐずついていた。きっと胎に抱く子供をいつも落としているから、僕はそう思う。
「ミツヤ、明日は早くに入っている。基地に戻りなさい」
 聞き馴染みの無い声が僕に後方から呼び掛けた。何かしらの物音がすれば癖で筋肉が反応してしまうのだけど、彼女が声を発するまでまるで気が付かなかった。もし見知らぬ彼女が敵機だとしたなら、僕は今頃息をしていない。そんな距離だ。僕と彼女との間はそう遠くなかった。
「誰かな」僕は木陰から、彼女の顔も見ずに言った。
 彼女は往生な態度をしていたので、僕より位が上であるのだろうと推測される。そうでなかったら、一体どうして笑ってやろう。自尊心の塊だ。すうと風が通り抜け、木々の葉が捌けた瞬間に空がよく見えた。背中に湿った泥の温みを感じる。花は咲いていない。さっき落とした煙草の吸殻を体の影で隠して、短い草々に身体を沈めた。
「私と話をするつもりなら立ちなさい」 彼女はとうとう僕の隣に立った。小さな革靴が目に入る。サイズは幾つだろう。
 僕は渋々ながらに立ち上がり、緩い敬礼をする。彼女は、胸に勲章をつけて歩くような人間では無いことが分かる。
「私はクサナギ。今日からこの基地のデスクを任されました。よろしく」
 クサナギは口を斜めにした。化粧をしていない小さな顔を傾けて、僕と入れ代わりに木陰に入った。木にもたれると、胸ポケットから煙草を出し、ライタで火を点けようとする。その試みは三度目に実を結び、彼女はようやく安定剤にありついた。
「滑走路内は禁煙ですよ」
「でも、貴方は吸った」クサナギはその炯眼で僕を捉えた。足を組み替える。丈の短いスカートを穿いていた。歳もそうかわりない筈なのに、セクシーだ。
「ちゃんとこれを拾っておくこと」
 クサナギは革靴の先で吸殻を指した。
「何か聞きたいことは?」
「前のデスクは何処へとんだ?」
「それは貴方に関係がある?」大いに関係がある、と僕は言ってやりたかった。しかし、クサナギはまるで教える気が無いようだった。
「人間の状態は、いるかいないか、この二つしかない」
「それは、誰の言葉?」
「プライベート」クサナギは息を吐いた。紫煙が立ち上り、頭上の雲と同化する。
「他には?」
「特にありません」
 僕は敬意を込めた敬礼して、彼女が去るのを待った。クサナギは右手の指に挟んでいた煙草を踵で踏み潰し、発悪く言った。
「規則を取り付けた人間は私じゃない」
 クサナギの姿が丁度見えなくなると、雨が降りだした。僕の回りに壁を作り、地上に押しとどめているのは、いつでも自然な事象。僕の思考外の何か。誰かの思考。そういったものが、人間に焦燥と顕示欲を与えて、凡庸であることを恐怖させる。だからどこへも行けないんだ。体が重くて、空だって上手く飛べやしない。

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